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渡辺篤 (俳優) : ミニ英和和英辞書
渡辺篤 (俳優)[わたなべ あつし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [へん]
 【名詞】 1. (1) area 2. vicinity 3. (2) side (of triangle, rectangle, etc.) 4. (3) circumstances 
: [はい]
 (n) actor
俳優 : [はいゆう]
 【名詞】 1. actor 2. actress 3. player 4. performer 
: [ゆう]
  1. (adj-na,n) actor 2. superiority 3. gentleness

渡辺篤 (俳優) : ウィキペディア日本語版
渡辺篤 (俳優)[わたなべ あつし]

渡辺 篤(わたなべ あつし、1898年4月9日 - 1977年2月27日)は、日本俳優。本名は渡辺 総一青二プロダクション所属。
浅草オペラを経て映画界に入り、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の一任者となった〔渡辺篤 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2014年12月22日閲覧〕。戦中は古川ロッパと行動を共にし、戦後は黒澤明監督作品に常連出演した。
== 来歴・人物 ==
1898年(明治31年)4月9日東京市浅草区西鳥越町(現在の東京都台東区浅草橋三丁目)に金物商の息子として生れる。幼少時に父が急死し、母と群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)に移る〔キネマ旬報1979、p.651〕。小学校卒業後は浅草の小間物問屋に丁稚奉公に出され、17歳の時に館林で小さな店を開くが、1919年(大正8年)に倒産したため再度上京〔。浅草にある「百助」という役者専門の化粧品店に勤め、役者の下へ注文の品を届けたりするうちに役者を志す〔。
同年に化粧品店を辞め、紙函を作る工場の職工となってまもなく、東花枝一座の俳優募集の広告を見て入団する〔。渡辺一を芸名とし、赤坂ローヤル館で上演した『マイスタージンガー』の老け役で初舞台を踏む。やがて座長の東が曾我廼家五九郎一座に入ると書生として同行したが、すぐにやめて浅草オペラ石井漠の門下となる。コーラスボーイを務め、堀田金星から渡辺篤の芸名を貰う〔。石井が浅草オペラを去った後は、千賀海寿一について巡業へ出たのを経て、高田稔のオリエンタルオペラ協会に加わった。
1921年(大正10年)9月、牧野教育映画製作所に入社〔し、牧野省三脚本・沼田紅緑監督の『兄弟仲は』に江川宇礼雄と主演して映画デビューする。幾つかの短編喜劇映画で内田吐夢栗井饒太郎らと共演したほか、牧野監督の大作『実録忠臣蔵』には道中の雲助の役で出演した。
1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所に入社し、野村芳亭監督『噫無情』、島津保次郎監督『貫一と満枝』などに仕出しで出演する〔。しかし同年9月にクビとなって東亜キネマに入社し、1924年(大正13年)9月には松竹下加茂撮影所に移籍する。当時の下加茂は新任の野村所長以下、清水宏大久保忠素柳さく子らが撮影所のてこ入れのために移ってきた時期だったため、手薄になった俳優陣の中で渡辺も準主役級として起用された。
1925年(大正14年)7月、下加茂撮影所の閉鎖で蒲田撮影所に移り、現代劇に回る。大久保監督の『麻雀』、島津監督の『妖星地に墜つれば』、野村監督の『カラボタン』などに脇役出演したが、同年12月公開の『愛妻の秘密』に筑波雪子と主演して以来は、しばしば主演も務め、五所平之助監督の『からくり娘』などで主役を演じた。大久保監督『月は無情』以降は城戸四郎所長が推進する短編喜劇映画の主演として起用され、三枚目役を演じるようになる。短編喜劇の名手斎藤寅次郎監督と組み、『活動狂』『モダン籠の鳥』『石川五右衛門の法事』などに主演、斎藤が連発する秀抜なギャグに自らも次々とアイデアを出した〔キネマ旬報1979、p.652〕。1931年(昭和6年)には五所平之助監督による日本初の本格トーキー映画マダムと女房』で田中絹代と主演した。
1927年(昭和2年)7月7日八雲恵美子吉川満子岡村文子、田中絹代、坂本武松井潤子吉谷久雄横尾泥海男石山竜嗣高松栄子龍田静枝らとともに準幹部に昇格〔『松竹九十年史』、松竹、1985年、p.239〕、翌1928年(昭和3年)1月8日には八雲と共に幹部に昇格した〔『松竹七十年史』、松竹、1964年、p.261〕〔『日本映画事業総覧 昭和年5版』、国際映画通信社、1930年、p.86〕。
1931年9月、鈴木傳明岡田時彦、高田らとともに松竹を退社し、不二映画社創立に参加。同社製作の『ルンペン俄大盡』では原作・監督・主演を務めた。同社は1933年(昭和8年)3月に解散し、同年4月に古川緑波笑の王国に参加。旗上げ公演の『われらが忠臣蔵』に早野勘平で出演し、常盤座金龍館などの舞台に立つ一方、『只野凡児 人生勉強』などの映画に出演する〔。1935年(昭和10年)7月、笑の王国を脱退して一座を結成した古川の東宝入りに同行し、有楽座日本劇場の舞台に出演する傍ら、古川主演の『ロッパのおとうちゃん』『ロッパの大久保彦左衛門』などに脇役出演した。
戦後はフリーになり、主に榎本健一や古川緑波らが主演したアチャラカ喜劇に出演。1950年代からは東映時代劇で活躍し、月形龍之介主演の『水戸黄門漫遊記』シリーズや、市川右太衛門主演の『旗本退屈男』シリーズなどに常連出演した。そのほか嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖』シリーズではおしゃべり伝六を演じた。一方、黒澤明監督にも重用され、『素晴らしき日曜日』から『どですかでん』までの8作に出演した。特に『どん底』での演技は評価が高いようである。
1977年(昭和52年)2月27日、急性肺炎のため東京都大田区北千束にある自宅で死去〔キネマ旬報1979、p.653〕。78歳没。3月7日妙真寺で告別式が営まれた〔。
ビートたけしは好きな俳優の一人に渡辺篤をあげており、息子の名前に篤と付けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「渡辺篤 (俳優)」の詳細全文を読む




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